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なりたち
人々が百人町、大久保に住みつくようになったのは非常に古く石器時代にさかのぼるといわれている。
大昔の人々が食べた貝などのごみ捨て場の貝塚が牛込牛込地区で発掘されている。
また、たて穴住居の跡も落合(目白学園)、戸塚(早稲田大学安部球場)で発掘されている。
百人町、大久保地区でも正規な調査によって、石器や土器、たて穴住居跡等、縄文遺跡が見つかっている。(百人町3丁目遺跡)
弥生後期に妙正寺川、神田川流域で水田耕作が行われ、一地区の居住者が増え小さいながら村の形がとられるようになってきた。
奈良、平安時代になると古代国家が確立するが、百人町大久保(その頃大久保といわれてないが)の地は武蔵国豊島郡に編入され田園地帯であった。
そして、平安末期から中央の力が東国経営に積極化するに従ってだんだ伝承、文献資料が残されるようになった。
「大久保」
の由来
「大久保」の文字が見られるようになったのは、今から約600年前の鎌倉時代からで地名の由来にはいろいろの説がある。
@小田原北条氏の家来大田新六郎寄子衆(小田原衆所領役帳にあり)に大久保の姓氏を名のる者があり、当所を領したので町名となった。
A東大久保と西大久保との境の地形が大きな窪地になっているので大窪村であったのが大久保村に改めた。
B東大久保二丁目永福寺の古い山号が大窪山であるからそれからとった。
C江戸幕府は初めの諸粗の同心に市ヶ谷、大久保等の地を与えて居住させたが、総取締として大久保某を選任に、郷を大久保に給わったので大久保と称するようになった。
以上4説があるが、古くは戸塚村内であったこと、窪地はこの地域から北の戸山町へ続いていることなどからして、地形の大窪から生まれたものとみて良いのではなかろうか。
江戸警備
小田原城北条氏が滅亡し、徳川家康が関東の領主として江戸に入城したのは天正18年(1590年)である。当時は武蔵野の原野で、その原野を横切る、南北と東西の古道があった。
南北の道は鎌倉街道、東西の道は今の甲州街道である。この2街道の交差点が今の新宿2丁目交差点で、そのあたりを制することが江戸警備上重要であり、特に豊臣秀吉の小田原城攻撃時には、武田氏、北条氏の残党を取り締まる上で重要な地点であった。
そこで家康は内藤清成に命じて江戸入城前にそのあたり一帯を調査させ、警備させた。内藤氏は見張りのために遠見やぐらを新宿2丁目あたりに設け、鉄砲隊をもって警備した。
1630年幕府を開き、家康は江戸を城下町として栄えさせることを目的にたくさんの大名屋敷や武家屋敷をつくり、それらの屋敷や寺、神社の間に町屋が広がり、町人の数も増えていった。しかしこの城下町の外側の百人町大久保地区はほとんど農村で開発がされなかった。
百人大縄屋敷
慶長7年(1602年)家康が狩りで中野の宝仙寺に休憩したとき、内藤清成は鉄砲隊同心が一定の住居地がなく困っている旨申し上げた。家康から適当な場所を選んで住まわせるようにとの命が出たので新宿周辺を調査し、この西大久保の地を定めて住まわせた。そこでこの地を大久保、百人大縄屋敷といった。それが百人町のいわれである。
はじめは陣屋形式の居住地であったが、その後狭い間口で奥行きの長い武士屋敷を造って定住することになった。(攻められた時、敵が入りにくく、逃げやすい設計)
屋敷地全域を東西に三条の道路をつくり、各入口に木戸を設け、木戸番を置いて守らせていた。三条の通りには南町、仲町(現大久保通り)北町である。
皆中神社
寛永年間(1624-44)近くの諏訪神社から分かれて この地に奉爾し射撃の皆中を祈ったことから皆中神社 の名が起こったのである。
つつじ
徳川時代は天下泰平が長く続き、戦争がないと手柄をたてられず出世もしない最下級武士の同心は射撃訓練の余暇、家計のたしにと、万が一に備えて火薬の材料となる木炭、硫黄、石灰、などを肥料として使うつつじの栽培を行ったのである。このつつじの美しさはやがて江戸じゅうに知れ渡り見物客で賑わった。
百人町、大久保地区を有名にしたのはまさしくつつじであった。(現在新宿区の花であり、小中学校の校章に使われているところも多い)明治になって一時さびれたが増殖改善して明治20年頃には再興をみた。
明治33年にはつつじ園は7園、花の種類70、株数1万、樹齢200年を経た古木もあったという。このあたりが最盛期でその後、中央線の前身である甲府鉄道の敷地の支障となり、このつつじを日比谷公園に売却、また、住宅貸家が増加し、地代も高くなりしだいに減少していった。
以来百人町、大久保は住宅地として発達したが、住宅街の地主さんに元の花屋さんが多いという。
戸山ヶ原
明治時代になり、新政府は幕藩体制をささえていた土地制度を解体し武家地は没収、寺社領は境内以外の土地すべて上地させた。それらの土地に多くの陸軍施設が設定された。その一つに、明治7年陸軍用地となり百人町、大久保地区にまたがっている「戸山ヶ原」ができた。
昭和3年陸軍射撃場が完成、東洋一の鉄筋コンクリート射撃場が設けられた。空からみると7本の土管を並べた形で長さ300メートルあり、世界に誇るのもであった。このとき、その西側に余った土地を盛り上げて造った、高さ約30メートル位の通称「三角山」ができた。
戸山ヶ原は高低起伏のある地形で、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林、その他一面の草原で軍隊の使わない時には、学校の遠足や家族連れの散策地となり、トンボ、セミ、バッタ、カブト虫を追っかける子ども達で賑わった。冬に雪が降れば、にわかスキー場ともなった。この戸山ヶ原の様子は文学作品にも多く描写された。
ここに当時小学生だった大島芳材氏の「戸山ヶ原の思いで」文の一部がある。
(とやま思い出の記、第8集より)
戸山ヶ原(現在の野球場やタワーホームズあたり一帯)は子どもにとって楽しい遊び場であった、起伏に富んだ草地があり、くぬぎ林があって、正月には透あげ、夏には暗いうちに起きてかぶと虫をとり、バッタやイナゴを追いまわした。腰に棒切れを差して、チャンバラごっこに夢中になり、広い草地を駆けまわり、塾通いをする今の子どもには考えられない楽天地だった。広い空と澄んだ空気が、戸山ヶ原にいつもあった。
山の手の線路を越えた向こうには、三角山という人工の山があった。高さは30メートルほどで、笹が一帯に生い茂り、ここも子どもの絶好の遊び場だった。登って頂に立つと、遠くまで見渡せて、西の方に富士山、丹沢、奥多摩、奥武蔵、秩父、そして浅間山までも望むことができた。夕焼けが広がると、子ども達の顔も体も赤く照らされて、空には雁がゆうゆうと列をなして渡っていくのが見えた。
商店街
昭和20年8月、日本は連合軍に全面降伏し、町は無惨な焦土と化したのである。特に、百人町、大久保地区は陸軍の施設があったせいか、連合軍の猛烈な空襲にあい9割以上が焼失した。
こうした状況下に区政の運営が困難となり、淀橋区(百人町、大久保含む)の一部が渋谷区か中野区に併合されるという意見もあった。この焼野原となった百人町にも昭和20年9月頃から戦前の商店主等がわありと早く近隣地に先がけ、困難、苦労とたたかいながら次々戻って開店し、少しずつ商店街の形態がととのってきた。しかし、商店もまばら、道路はでこぼこ、埃だらけの砂利道で、夜は真っ暗闇で追いはぎの出そうなさびしい通りであった。この状態を少しでも良くしようと、昭和22年「百人町のまちを明るくしよう」と有志の方々が、相談、街路灯の建設に着手し木の柱に50個の電灯が灯された。この街路灯設置を機会に商店街が結成され、その名も希望の願いをこめて「明るい会」と命名された。
それは新しい日本の再出発を記する新憲法の発布の年でもあった。その後、急激に発展し、新宿の至近距離で、旅館、下宿、住宅地ができ、通りには商店が漸増し、町の復興と共に商店街も充実発展していった。
昭和31年、新宿区創立十周年記念事業の都市美化運動の一環として。大久保通りに柳の植樹が行われた。
昭和38年任意団体「百人町明るい会」より「新宿百人町明るい会商店街振興組合」を設立、東京都の第一号振興組合として認可され法人団体となった。そして振興組合の初仕事は大きな予算のかかる、商店街の顔。アーケード建設であった。時あたかも、東京オリンピック、東海道新幹線完成の前年で日本中が湧きかえっていた。
  参考文献
新宿区の歴史昭和52年
新宿区町名誌昭和51年
とやまー思い出の記ー第8集
新宿区歴史博物館常設展示図禄平成元年















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