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江戸幕府鉄炮組百人隊保存会
約40年前に地元の商店主らが中心となって結成。隔年ごとに「出陣」が行われ、鉄砲組武士団の行列を再現。

百人町鉄炮隊       鉄砲隊サイト

わが国における鉄炮の伝来は、群雄割拠の渦まく今から四五五年前、天文十二年(一五四三年)二人のポルトガル人によって、もたらされました。
徳川家康が天下統一を成し遂げた有名な戦い、「関ヶ原合戦」に勝利したのは、実に「鉄炮」の使用が大きく左右したといわれております。

江戸幕府開かる

徳川家康に終始仕え、数々の功績をあげた家臣に、服部半蔵正成という伊賀上野出身の武将がいました。その半蔵正成を頭領とする伊賀者の中の鉄炮百人同心が、内藤修理亮清成に預けられ、天正十八年(一五九〇)、家康が武蔵国「江戸」入国の直前、鉄炮組は内藤氏に従って江戸にむかいました。内藤氏は家康の入国前に、武田(甲州)、北条(小田原)などの残党、野武士、浪人達が乱を起こすのを未然に防ぐため、甲州街道と旧鎌倉街道との交差する所(現新宿伊勢丹周辺)に、鉄炮組を布陣駐屯させ、その一帯の調査と警備をさせました。
その頃、江戸城半蔵門から現四谷二丁目、新宿二丁目周辺に駐屯しておりましたが、次第に江戸城及び城下周辺の整備も着々と進められ、また江戸幕府の制度改革に伴い、鉄炮組も幕府直轄として幕政の一角に組み入れられることになりました。

鉄炮組駐屯から定住へ

慶長七年(一六〇二)家康公が鷹狩りで、中野坂上宝仙寺にて休憩した折、内藤清成は、鉄炮組百人同心が一定の居住地がなく難儀をしている旨を申し上げたところ、家康公より適当な場所を選定し住まわせるようにとの命があり、内藤氏の見たてによって大久保百人町一帯に住まわせるようになりました。この地を大久保百人町大縄屋敷といい、陣屋形式の居住地でありました。この屋敷は現在の百人町一、二丁目にあたり、嘉永四年発行の近江屋版「江戸切絵図」にはっきりと図示されております。
その形態は現在の小滝橋通りに面し、大久保通りを挟み、左角の三和銀行とホテル海洋、右角の太陽堂文具店の所に西詰めの表木戸があり、一方、裏木戸は大久保通りを東へ向かい、明治通りに面する国民銀行の所にあり、各木戸には終始木戸番をおき、江戸の西側を守る拠点とし、一つの砦として造られ厳重な取締りをしておりました。屋敷内の内訳は与力屋敷二十軒、同心屋敷が百人町一丁目側に五十軒、二丁目側に五十軒が軒を並べておりました。続く町筋(現大久保一、二丁目)に玉薬同心屋敷があり、木戸内部全体に日常の生活用品を商う町屋も混じえておりました。町筋は大久保通りの一直線上にあり、道幅は狭く三間幅(一間は一・八メートル)程で、各屋敷の間口も狭く三間から四間につくり、奥行きは三十間から五十間と深く、丁度鰻の寝床のように細長い敷地に建てられ総坪数十五万二千坪強の面積がありました(注1)。
この組屋敷の中心には鉄炮百人組の守護神である「皆中稲荷神社」(皆=みな、中=あたる)が鎮座されております。また組屋敷の北側(現在の百人町三丁目)に隣接して広大な面積をもつ大筒角場がありました。角場とは、火縄銃の日頃の練習に使う実弾射撃場のことであります。ここは明治新政府となって、鉄炮百人組から旧日本陸軍へと移行され、戸山ヶ原射撃場、戸山ヶ原練兵場となりました。戦後は学校、公団住宅、公園、スポーツ施設等へ移り変わりました。

鉄炮百人組の任務

関ヶ原合戦以後、二六四年に亘って天下
泰平の世が続き、鉄炮組として実践の経験はありませんが、平時には将軍家お成りの際の警護の任につき、江戸城大手三門の守備についておりました。現在も百人組の詰所である百人番所が、江戸城旧本丸の玄関口の門跡近くに、木造平屋の瓦葺きで約四百平方米の建物が現存しております。また、徳川家の菩提寺として名高い上野寛永寺文珠楼、芝増上寺山門の将軍参詣時の警護を任務とし、与力二十騎、鉄炮同心百人が正装をし、供奉しました。これらは全て戦時に用いられた出陣形態を、儀式の上に再現制度化されたものであります。また将軍の日光東照宮参詣、京都二条城参上の際には、遠路隊列を整えお供をいたしました。

鉄炮百人組の組織

鉄炮百人組は、当初は老中直轄支配であったが、寛永の改革後、直参旗本に統合をされ、幕政を預かる若年寄が、直接指揮をとるようになり、寛永十二年より、千葉県下総国「関宿藩」主久世三四郎廣當が鉄炮頭の任につきました。その抱屋敷の跡が、現在の職安通りのハローワーク周辺に、一万三千坪の広大な屋敷をもっておりました。その後、百人組は鉄炮奉行による支配へと移行されました。その編成は、組頭一名三十石、馬上与力二十騎八十石、鉄炮同心百人三十俵二人扶持の禄高でありました。

鉄炮百人組とつつじ

昭和四十七年、新宿区の「花」として指定された「つつじ」は、元来、大久保、百人町一帯に自生しておりましたが、鉄炮組の定住後、将軍警護のかたわら家計を助ける内職として、栽培し、有事の際に備え火薬の材料となる木炭、硫黄、石灰などを肥料として使用するべく、両面から栽培を行いました。
江戸中期には、「大久保百人町のつつじ」として、江戸市中一帯に大変有名になり、『遊歴雑記』や『江戸名所図絵』の錦絵にもとりあげられるようになりました。
明治二十二年には明治天皇自らこの地を鑑賞に訪れ、その際、短歌を詠まれ、それを記念した石碑が、皆中稲荷神社境内に建立されております。
この地のつつじも、明治末まで隆盛を続け、JR中央線の前身である甲武鉄道が最盛期には、臨時列車を運行するほど活況を呈しました。
しかしその後、時代とともに周辺は次第に宅地化され、さすがの名所もその面影をひそめていきました。
戦後、百人町では、かつての名所を偲び、あたり一帯は都市化されたとはいえ、少しでも樹木によってうるおいをもたらそうと、毎年四月、ゆかり深い皆中稲荷神社境内において、地元の青年たちによって「つつじ即売会」を開いております。 また、昭和三十六年より、地元有志の尽力によって「鉄炮組百人隊出陣行列の儀」が見事復活し、それを支える「鉄炮組百人隊保存会」も、地域の文化継承と保存のため、地道な活動をしております。


(注1)間口が狭いと一度に大勢の敵が侵入しにくく、攻めるのに困難、奥行きが長いと敵を待ち伏せ、反抗の機会が生まれやすく、逃げやすい設計。(大浦正夫記)
参考文献
『日本人名大辞典』 平凡社、 『江戸幕府役職集成』 雄山閣、『国史大辞典』 吉川弘文館、 『昭54 新宿文化財総合調査報告書bT』、新宿区教育委員会、 『将軍の護衛集団』 名和弓雄著、K・Kベストセラーズ発行

鉄炮組百人隊保存会
「鉄炮組百人隊」出陣
昭和36年、皆中稲荷神社の宮司さんの働きかけで、地元の商店主らが中心となって保存会を結成。
鉄砲組が百発百中を祈願したという皆中稲荷神社の祭礼で、銃を携えた同心、与力ら総勢200人を超す鉄砲組武士団の行列を再現し、隔年ごとに、境内など大久保地区数箇所で火縄銃の試射が披露される。

第4回ふるさとイベント大賞受賞
財)地域活性化センター主催の「第4回ふるさとイベント大賞」(平成11年度)では都道府県および主催新聞社から推薦された152イベントを対象として選考され、見事「選考委員特別賞」に輝きました。
繁華街を間近に控え、変貌の激しいこの地域で、伝統文化を大切に保存していきたいという住民の熱い意気込みが強く感じら、困難を乗り越えながら、鉄砲の保存を通して、当時の背景やくらしなどを学ぶ姿に歴史的展望がうかがえる。と評価された。

無形民俗文化財登録

平成14年2月1日、新宿区教育委員会において地元の『江戸幕府鉄砲組百人隊出陣の儀』の歴史的価値が評価され、新宿区無形民俗文化財の登録が決定された。
江戸開府400年記念
江戸幕府「鉄炮組百人隊」出陣の儀

出陣コース


鉄炮隊百人組同心(射撃の号令および操作手順)

1.この姿勢にて号令を待つ。
号令「弾籠め用意ー」で火蓋を開ける。

2.銃口より強く息を吹き火蓋を閉じる。

3.左手で銃口を持ち右手で胴乱から火薬入れを出し、筒先より火薬、紙、鉛玉、紙の順に入れ、その都度さく状で2〜3度突く。

4.口火に火薬を詰め、銃を軽く叩き、指で平らにする。火蓋を閉じ、余分な火薬を吹き飛ばす。火縄を左手の小指と薬指で持ち。この姿勢で号令を待つ。

5.号令「立ち放し狙えー」で右頬に銃をつけ、左手で銃の中心を持ち左足を前に出し立つ。号令「火蓋切れー」で火蓋を開ける。号令「放てー」で右手人差指にて引金を引く。

大久保区民センター1階のロビーには4の動作を示した人形が展示してあります。















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